画人文人 よんじょう
南仏コートダジュール在住の日本人。藍の万年筆で描かれる独自の絵は不思議な魅力を放つ。個展で展示される100点ほどの絵はほぼ完売。アメブロのヨーロッパ部門で有名なブロガーでもある。
<南仏ネコ絵巻>ではフランスのネコにまつわるグッズやよもやま話をイラストとともに紹介します。
「フランス絵巻」
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John Sykes(2015)「111 LIEUX ABSOLUMENT ETOMMANTS a LONDRES」Hachette Tourisme

ロンドンの旅から戻り、仏人向け“ロンドンのガイドブック”を眺めておりました。

そしたら、招き猫の画像が出てきたんですわ。

「お!ロンドンにも※豪徳寺があるんだ?!」と、誇らしい気分で~潜在的愛国心で~、ページの説明文を読んでみました。
(※豪徳寺;招き猫で有名な世田谷区にある寺。行ったことないけど。)
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しかし、全文を読み終えた後、消化不良に…。

「文章のどこにも“日本”が出てこなかった」

当然、招き猫の起源が書いてあるもの、と、JAPONの話を期待して読み進めたのですが、最後までジャポンのJの字も出てこないどころか、“CHINA”(!)でまとめられていたのだ。

おはぎを買いにいったら、月餅しか売られてなかったような落胆ですよ。
焼き鳥を食べたかったのに、北京ダックしかなかった(?)でもいいですけどね。

イギリス人は、招き猫を“中国のもの”と認識してるようです。
そして、このガイドブックを読んだ仏人らも、招き猫=中国という思い込みになってしまいますな。

そこで、ロンドン在住の友人に確認してみました。
「ロンドンに、招き猫を陳列している中国のお寺がある?」と。

メール送信後、あらためて、画像をよーくみたら、お寺じゃなくて、雑貨屋!という事に気づきました……。

お箸も売ってるし・…。左下あたり

お箸も売ってるし・…。左下あたり

思い込みってこういう事ですよね。
一旦、“豪徳寺”と脳が決定したら、雑貨屋も寺に見えてしまう。
一旦、英国人に刷り込まれた“招き猫の出自“を書き換えるのは、もう至難の業ですよ。

しかし、考えてみれば、これまで日本人は、招き猫=日本のものだと、何の疑いもなく思い込んでますけど、ホントにそうなんでしょうか?
「ちょっと考えてみニャよ!」という猫神様のお告げかもしれません。

ということで、調べてみました。

招き猫の発祥&由来に関して、たくさんの記述が出てきます。

江戸時代、井伊直孝の豪徳寺説、浅草神社の今戸焼説、新宿の自性院説、京都の伏見稲荷説。
庶民の日常生活においては、江戸初期、猫がネズミを駆除することから、穀物を守る役目の猫を“おいでおいで”と呼び、猫が住む家は商売繁盛に繋がるとされた説、等。

やっぱり日本が起源ですね!

と、安心するのは、まだ早い。

こういうのって、中国のgeogleで調べたら、“中国版・招き猫ストーリー”が出てくる筈。

日本でみる世界地図は、日本列島が中央にあって、欧州の世界地図では、日本列島が端っこに位置してますからね。

案の定、“中国のネットによると”という書き出しで、こんな一説をみつけました。

“猫が顔を洗うと来客がある”という言葉(中国の迷信)が、一千年前の文章の中に残っていて、これが”招き猫“の由来、とする説。
また、1600年前の遺跡から、招き猫に似た石壁が発掘されている、という説。

江戸時代(=400年前)VS1000~1600年前=中国に軍配?

まあ、「どっちでもええがな」の話なんですけど、こういうシーンで、譲れない気持ちになるのは、愛国心なんでしょうね。
普段、愛国心なんて意識してませんけど、どうってことない場面で、顔をもたげてきますな。
コジン的には日本説を支持しますけど、どっちの説も事実なのかもしれません。
遠い外国で、同じようなモノが存在してたり、同じような風潮が起きるのは歴史的もあるし、時代の思考にも共通の流行があります。

ゆえに、どっちがマネしたとかより、ここはもう、北風と太陽の出番ですよ。
どの国の、何ジンであっても、幸運をもたらすという現象が大事なのです。

招き猫は、太陽のごとく、いつもそこにいて、毎日、幸福を注ぎ続けているのに、受け取る人民が“ウチのもの!”というケチな制限をつけるんですよね。

誰の所有物であるか、という論争自体、福を減らす思考です。

個人のレベルでも、豊かじゃない人は、思考がケチですもんね。
人の為に尽くすのが生き甲斐、とかいいながら、“やってあげた”のに、“お礼の1つもない”、という考えが必ず出てきます。

人気作家さんの話の中に、こんな真理がありました。

「人の為になりたがる人」と「人に何かしてもらうおうとする人」は、実は、どちらもコインの裏表で、どちらも依存です。人の為と書いて「偽り」という字になるのは偶然ではない。

人に幸せをもたらす自分、という自己陶酔でしか満足を得られない、ということラシイ。

順番は、ヤハリ、まず、自分自身を満たすことですナ。
自分が中途半端な状況で、人を幸せには絶対にできませんからね。

そういえば、人が病気になった時や、大イベントを控えて緊張マックスな人に対して、「大丈夫!うまくいく」って言葉をかけるのが流行った時期がありましたよね。
毎回、寒気がしましたよ。

励ましているつもりの本人がキモチ良くなってるだけですね。ああいうセリフは、あくまでも、コジン的に大信頼を置く人物に言われてこそ威力を発揮するもの。
可もなく不可もない人から「大丈夫!」といわれても、言葉だけが安っぽく響きます。

なんで、招き猫から、こんな話になってるの?
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話を戻そ。
今月の猫エッセーを書くにあたり、Mプリで買い物をした帰り道、<招き猫は、日本が起源か、中国が起源か?>を考えながら、歩いておりました。

わたしは“四六時中、モノを考えてる人だ”といわれるんですけど、脳内は、このように“どうでもいいこと”で占領されています。

そんな“考え事”をしていたら、向かい側から、こちら方向に歩いてくる綺麗な仏女(30歳半ば)に気づきました。

フト、目が合い、すれ違いざまに、彼女が突然、私に挨拶したんですよ。
「ニーハオ!」って。

どんな引き寄せ力やねん。

私のことを中国人美少女だと思ったんでしょうけど、美少女は、仏女に向かって、ただちにレスポンスしました。
「Non!ニーハオじゃなくて、“コ・ン・ニ・チ・ハ”!」

すると仏女「Oh!ニーハオじゃないのネ。Ko・n・ni・chi・haね。オッケー!」

通常、道端で、見知らぬ仏人が笑顔で近づいて話しかけてくる時は、“新興宗教の勧誘“のことが多いんで、この時もソッチ系?と構えましたが、
彼女の場合は、ただ純粋に、“ニーハオ“を使いたいだけの人だった。

中国語の勉強をしてる人なんでしょうね。

“Chat porte-bonheur”(=招き猫)は、彼女的には、ニーハオなのか、コンニチハなのか、聞いてみたらよかったナ。